1453 こけちゃいました [詩・エッセイ]
「こけちゃいました」
オリンピックのシーズンになると、
今でも、あの時の、
あの爽やかなアクシデントを想い出す。
「途中で、こけちゃいました」
この言葉が、
こんなにも美しく光り輝いたのは、
この言葉が創られて初めての事ではないだろうか?
オリンピックに纏わる栄光や伝説は枚挙に遑がないくらい沢山あるが、
その選手は、
オリンピックのメダルには縁がなかったのにもかかわらず、
私の脳裏には、
今も、あの感動が燦然と輝いている。
今から二十六年前、
一九九二年バルセロナオリンピック大会最終日の男子マラソン、
二十キロ過ぎの給水所で谷口選手がボトルに手を伸ばした瞬間、
左後方から来たモロッコの選手と交差して左足かかとを踏まれてバランスを崩すと、
巻き添えを恐れた後続の選手に突き飛ばされたのだった。
ロスタイムは三十秒以上、
靴を履きなおしてレースに戻ったが、先頭集団には十五人もの選手がいた。
それでも次々と前を行く選手たちを驚異的な追い上げで抜き去り、
八位でゴールしたのである。
四十二・一九五キロを走り終えたのに、
その疲れも見せず直後のインタビューで、彼は、照れ笑いをしながら、
淡々と語っている。
「途中で、こけちゃいました」
と言ったのは、
「メダルを逃した説明をしなくちゃと思って、
勝てなくて申し訳ないと思っていましたから。まぁ、言い訳です」
と語り、
少しも悪びれず、このアクシデントを誰の所為にもしなかった。
私は、偉大なる偉業を成し遂げた金メダリストよりも、
メダルは取れなかったが、
この谷口浩美選手のことが忘れられない。
彼こそが、
いい意味での日本男子であり、
いい意味での、誇りに思うことの出来る武士(もののふ)であると思っている。